56
masaki’s Book
洗面所で口を濯いだ俺は鏡を前にして、深い深呼吸をしていた。
ホッとしたのは言うまでも無い。
誤解が解けたのは吉高さんのおかげだ。
後できちんとお礼を言わないとな…。
その時だった。
例のピンポン連打がけたたましく鳴り響いて、さっきまでの行為がギリギリセーフだった事に気付く。
鏡に向かって苦笑いしてから二宮さんがいるリビングに戻った。
ソファーに座っている二宮さんはブスッと不貞腐れた表情で、顎を使い俺に玄関へ向かうよう指示を出す。
モタモタしていたらチャイムの鳴るスピードがどんどん早くなって、縺れる足を立て直しながら玄関に急いだ。
扉を開くと、吉高さんが下のケーキ屋さんの箱を俺に突き付けてグイと近づいてくると、耳元でささやいた。
「私に借りを作った事、忘れないでくださいね」
『かっ!借り…ですか?ハハ、なんか怖いなぁ』
引きつって笑う俺をよそに、吉高さんはズンズン中に入って、リビングの二宮さんに原稿の催促をしている。
一体どの辺で切り替えがきいているのか、ある意味二宮さんに等しいほどに変わった人だと思った。
預かったケーキを抱えたままリビングに足を踏み入れる。
二人はパソコンに向き合いながら、う~んとかどうだとか話してる。
さっきまで二宮さん…あんな顔してたくせに…
ケーキの箱をローテーブルに置いてジッと二宮さんを見つめた。
恥ずかしいのか、俺が付けたキスマークをさりげなく手で隠しながら仕事の話をする彼が愛しくもあり、もどかしい気持ちにもなった。
「じゃあ、私はこれで。次の締め切りまでにまた様子を見にきますね!」
「こなくたってちゃんと間に合わせてますけどね」
「あれ?そうでしたっけぇ~??ま、良いじゃないですか。細かい事言わないで下さいよ。ねぇ~相葉さんっ♡」
吉高さんは小悪魔な瞳をウインクさせてポンポンと俺の肩を叩いた。
俺はさっきの借り話が恐ろしくて曖昧に頷きながら返事を返す。
『は、はぁ~…』
「何、吉高さんと意見合わせてんだよ」
不機嫌そうな顔で俺を睨み付けてくる二宮さん。
『いっ!いや!そう言うわけじゃ!』
慌てる俺に、吉高さんがプッと噴き出した。
そこから
ゲラゲラと腹を抱えた大笑いをしながら、俺を指差して
「借りですよ!か~りっ!相葉さんは私に助けられたんですから。しばらくは良いように使わせて貰わないと♡」
「吉高さん!相葉さんは君のオモチャじゃないからな!」
「わかってますよ、先生がいい作品を作れるお手伝いをしてもらうだけです」
『おっ、お手伝い?』
「君、彼に何をさせる気だよ」
「いえ、難しい事はとくに考えてませんよ~、ただ、担当が来るまでの隙間時間にイチャイチャしていただいたりぃ~」
目を細めてニヤニヤする吉高さんを見て、ハッとした。
あのタイミングの良さは…もしかしてこの人…玄関に既に立っていたんじゃ。
二宮さんは疑いもなく言葉どうりを受け取っているようで、白い肌を真っ赤に染めて俯いている。
俺はというと、妙な汗が背中を伝うのを、感じていた。
やっぱりこの人怖いよぉ~
あぁ…でもお礼は言っとかないとな!
『よっ、吉高さん、今回は本当、ありがとうございました。その…満足いくお手伝いができるか分かりませんが、二宮さんと仲良くやっていきます。宜しくお願いします。』
「うんうん!う~っっん!!」
吉高さんは握手した俺の手をぶんぶん振ってニィッと笑った。
腕組みした二宮さんが呟く。
「真面目かよっ!…ったく」
そんな悪態に吉高さんはサラッと返す。
「先生が変人なんですから恋人はこれくらい真面目がいいんですよ。あんまり相性良いからって腰壊さないで下さいね!」
「なっ!吉高さんっ何言って」
『する事してりゃあ匂いも移りますからねぇ~ふっふっふっ」
悪そうな薄目で語る吉高さんの言葉に二宮さんはセーターの裾を掴んでクンクンする。
「いっ!いい加減な事言うんじゃないよっ!にっ匂いなんてっ!きみって人は全くっ!」
『まぁまぁ二宮さん、落ち着いて』
仲裁に入ると、キッと睨みつけられる。
吉高さんはヒラヒラ手を振りながら玄関に向かい
「夫婦喧嘩は犬も食わないって言いますからぁ~私はこのへんでおいとましまーす!ではぁ~」
首だけで振り返り敬礼ポーズをすると、バタンと出て行ってしまった吉高さん。
セーターの裾を悔しそうに両手で握りしめ立っている二宮さん。
自らする事してましたって言っちゃってる事には気づいていない。
俺はそれがおかしくて、ゆっくり近づいて華奢な身体を抱きしめた。
ピクンと揺れた肩は、”この先”を望んでいるように感じて
愛おしくて堪らない。