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nino’s Book
カシャンとプラスチックの買い物カゴが床に落ちる音がする。
中で黄色いレモンだけがコロコロと不規則な動きで転がっていた。
目の前の雅紀は泣いていて、どうしてだかコタツの話が、一緒に暮らして欲しいなんて告白に変わっていた。
スーパーの野菜売り場で熱い抱擁。
相手の男は無駄にイケメンだし、隠しもせず泣いているときたら目が行かないはずもない。
ついでに言うと、良い大人の男同士が抱擁とあっちゃ、目立たないわけがなかった。
だけど…不思議だ。
俺はコレを待っていた気がする。
ゆっくり腰に腕を絡めて雅紀を引き寄せた。
「良いな、それ。そしたら…俺、きっと寂しくならないよな?」
雅紀は涙を流しながら額を合わせて来る。
グズグズと鼻を啜りながら
『良いでしょ?くふふ…寂しいなら…もう離れなきゃ良いんです。』
“寂しいならば 離れなきゃ良いんだ”
自分が呟いた呆れるまでに短絡的な独り言が目の前で二人言に変わった瞬間。
俺まで釣られて涙が溢れてきた。
合わせた額、鼻先を擦り合わせ囁くように話す。
「小説が……書けそうなんだ。」
『えっ…本当?!』
「あぁ…今朝から絶好調。…夕方、一区切りついて、もしお前にここで会えたら…俺も同じ事を言おうと思ってた。」
ハッと驚いた息遣いで俺を見つめる雅紀。
泣き止みかけていた黒目の大きな瞳から、面白いようにポロポロ涙がこぼれ落ちる。
『もうきっと…あなたは寂しくならないよ』
「ふふ、すげぇ自信じゃん」
『今日…ちゃんと話してきました。』
雅紀は俺の二の腕を握り身体を引き離すと、真っ直ぐこちらを見て続けた。
『翔ちゃん先輩にね、和の事、好きで好きで仕方ないって。側に居なくなるなんて怖いって…。俺、ちゃんと本気だから!だからあなたの事は誰にも隠したりしないよ。だから…和はもう』
その後、俺達は声を揃えて呟いた。
“寂しくならない”
二人、見つめ合い、声を上げて笑った。
スーパーでお互いにプロポーズじみた告白をし、人目も憚らず抱き合い、同じ言葉を口にする。笑い転げる俺達にハッキリ鮮やかな未来が見える。
俺達は明日、コタツを買いに行くだろう。
きっとこの買い物カゴのレモンを切るのは雅紀で、グラスに入ったレモン入りチューハイを先に呑むのは俺に違いない。
夕飯時期の良い香りがするキッチンには、吉高さんがどこからともなく無遠慮にやって来て、当たり前のように飯を食っていくんだ。
寂しい
あれは今も…頭に棲みついて離れない言葉。
きっと一人が寂しかった。
でも、今の方がうんと寂しい。
離れる時間を感じるせいだ。
大切な人が居て、居なくなる事を思うのが苦しい。
あの時、俺が書けなかったのは、この寂しさを知らなかったから。本当に大切な人の温もりを知らなかったから。
寂しいならば 離れなきゃ良い。
大切な君が言う。
何度も
何度も
キスで消えない痣を作るように。
寂しいならば 離れなきゃ良い。
ムードのないスーパーの野菜売り場で君がそう囁いたから
俺はおかしくて吹き出した。
それから、背の高い君に届くように
優しい君に届くように
ほんの少し背伸びして、買い物客の主婦達を前に
隠す事なく
ありがとうとキスをした。
周りからキャッと小さな悲鳴が上がる。
雅紀と来たら、そんな事お構いなしに顔を傾けて深く唇を重ねてくる。
「んぅっ…んぅ~っ!!っぷはっ!バカっ!ガッツき過ぎだっつーのっ!」
『だって俺達、一緒に暮らすんですよっ!興奮が冷めやらないでしょっ!』
ガバッと俺を抱きしめてた雅紀がポツリと呟く。
『…生姜焼き…好きですか?』
俺はムードと真逆の馬鹿みたいに現実的な質問に軽く吹き出し、クスクス笑いながら返事を返す。
「そーだなぁ、どっちかっつーと…好き」
『くふふ、じゃ、今日は生姜焼きを作ります。うちで食べて帰ってください』
「やった!で!明日はハンバーグな!」
『またハンバーグですかぁ~、あっ!そうだ!今度作る時はハンバーグの形!ハートにしようって決めてたんです!よしっ!明日はハートの形のハンバーグですっ!』
俺は買い物カゴを拾い上げて眉間に皺を寄せる。
「乙女かよ…ったく、面白い事考えるねぇ~」
雅紀はアハハと笑いながら俺の手から買い物カゴを取り上げる。
代わりに手の平が重なって、指の隙間が雅紀の指でキュッと埋まった。
手を繋いで
カゴの中のレモンを揺らしながら、サンダルをペタペタ鳴らしてスーパーを歩く。
首には返しそびれたままの雅紀のマフラーが揺れた。
寒空の下、寄り添いながらガサガサ鳴るスーパーの袋の音をBGMに自分の家とは逆方向へ。
「マフラー…返しそびれたな。」
『そーですねぇ、ま、もう一緒に暮らすんだから、返す必要ありませんけどね』
雅紀が嬉しそうに笑うから、俺はマフラーに顔を埋めた。
ドキッとする笑顔に耳を赤らめていたら
『あ…』
雅紀が小さく呟くから視線をやると、繋いだ手をクイと引っ張り上げて、空を指さした。
『ほら…寒いと思ったら雪』
「あ~、本当だ…どうりで寒いと」
雅紀が繋いだ手にハァッと息を吹きかける。
温かいぬくもりに目を細めてその姿を見つめた。
そんな俺に気づいた雅紀が首を伸ばす。
繋いだ手
重なった唇
シンシンと降る雪に
ガサガサ鳴る買い物袋
そっと離れた唇が粉雪をバックに囁いた。
『明日のハンバーグ、煮込みにしましょう』
このタイミングは、どうせなら臭いセリフを言うタイミングだ…と少なからず俺は思う。
愛してますとか、大好きですって、離れた唇は雪景色をバックに呟くんじゃないのか?
俺はもう可笑しくて、ゲラゲラ笑いながら返事した。
「アハハ!煮込みなっ!良いっ!寒いしっ!ほんっと!賛成っ!」
『なぁんですかぁ~っ!何でそんな笑うんですぅ?』
雅紀は先を歩く俺に駆け寄ってくる。
「なぁんもねぇよ!」
『いやいや!あるでしょ!和~教えてっ!』
「アハハ!ヤァーダよ!寒いっ!早く帰ろうぜ!腹減ったぁー」
こうやって
何でもない幸せが
毎日毎日、積み重なる。
寂しいならば 俺達は
きっとずっと
離れなければ 良いんだから。
END