隣の猫
朝、目が覚めた俺は隣の部屋の静かな壁に耳を傾けた。
静かだ…
チュンチュンと雀の鳴き声が響いて少し騒がしいんじゃないかというくらいには…
隣は静かだ。
大学一年の俺はこの春、晴れて志望大学に合格。
田舎から上京し、夢の一人暮らしを始めたばかり。
目玉焼きとウインナーを三本焼いて、フライパンからスライドさせながら、真っ白のプレートに移す。
トーストを二枚焼いて、バターを雑に塗り込んだら、リビングのローテーブルにそれを置いて床に胡座をかいて食べる。
爽やかな大学生の朝だ。
リュックに授業の教科書を詰めて、腕時計をはめ、玄関の靴箱の上に昨日バイト帰りに投げ捨てたままの鍵を握り外へ出る。
ちょうど7時30分。
隣の住人、相葉さんが同じタイミングで玄関から出て来た。
実のところ、俺が越して来てから、この隣りの住人と外出するタイミングはいつも同じだ。
俺はモタモタと鍵穴に鍵を差し込むフリをして時間を稼いだ。
何故って…
それはつまり…
高そうなスーツ姿の細身の男性。
栗色の髪がサラサラと目元を隠す。
男は絆創膏や包帯を巻いた傷だらけの長い指先で一個、二個、三個と鍵を閉めて行く。
俺はゴクッと喉を鳴らしてしまった。
鍵穴に鍵を突っ込んだまま、ゆっくり隣を振り返る。
すると、綺麗にスーツを着こなした彼が片方の口角だけ吊り上げてニヤリと笑った。
俺はリュックの肩紐を握って一歩後ずさる。
『おはようございます。…いつも同じ時間ですね』
桜の木も花弁を落とし切った頃だった。
表札で名前以外知らない隣人の彼とは今日、初めて口をきいた。
物凄くイケメンってヤツで、人の良さそうな優しい笑顔と、鼻にかかった丸い声をしている。
ついでに何とも良い匂いがした。
「おっおはようございますっ!そっそうですよね、いつも、一緒っすね!…ぁ…あのぅ」
俺は顎を引きながら上目遣いに思い切って踏み込んだ。
男はニッコリ笑って首を傾げる。
『何ですか?』
「ぁ…あ!手…いつも大丈夫ですか?き、傷が絶えないお仕事なのかなぁって…すげぇ…スーツ似合ってるのに」
そう言った俺に、彼は不敵に微笑んで、自分の包帯まみれの手を頬擦りするように持ち上げると、さっきまでの優しい笑顔とは違う鋭い視線で俺を見つめ、呟いた。
『猫なんですよ…まだ躾がなってなくてね。』
ゾクリと背筋が震えて俺は彼の家の玄関扉の鍵に視線をやる。
『逃げ出すと困るでしょ?ちゃあんと…世話しないと…ねぇ?そう思いませんか?』
猫…
猫
猫じゃ…ないだろ?
その中に居るのは…
「そ、そうですね…」
引き攣ってしまう俺に一歩、また一歩と近づく彼は、おもむろに目の前でネクタイを緩めた。
『春も終わりですね…もう……随分と暑い』
「……ぁ…あっ…はいっ!そうですね!あのっ!じゃっ!俺っ、急ぐんだった!すみませんっ!失礼しますっ!」
心臓が
バクバク
心臓が
ドキドキ
走り出した俺は口を手の平でグッと押さえ付ける。
「ハァッ!ハァッ!ハァッ!」
乱れる呼吸
意味のない動揺
緩んだネクタイと開いた白いカッターシャツの向こう側。
首筋から鎖骨、胸元に広がる無数の内出血の痕。
あれは
キスマーク。
彼はそれを俺に見せる為に、窮屈に締められたネクタイを緩めた。
心臓が張り裂けるんじゃないかと思う全力疾走のおかげか、さっきの一連の流れのせいか、俺は頭を抱えてうずくまった。
「何だょ…あれ…何なんだよっ!」
“猫なんですよ”
そんなわけない!!!
俺は知ってるんだっ!!
“まだ躾がなってなくてね”
毎晩っ!毎晩聞こえるんだよっ!!
猫なんかじゃないっ!!
あれはっ!
“逃げ出すと困るでしょ?ちゃあんと…世話しないと…ねぇ?そう思いませんか?”
あれはっ!!
人間の喘ぎ声だっ!!
しかも…あの人の声じゃないのに…
鳴いているのは…男…。
バクバクと
ドキドキと
苦しい
苦しいっっ!
身体中の愛された証を見せつけて
逃げるだって?
中に居るのは…恋人じゃないのか?
鍵を周到に外から三つも…あれ…中から開かないようになってるんだ…。
俺はうずくまったまま、髪に埋めた指にグシャッと力を込める。
何で…
何でだよっ!
俺…勃ってる…
ドクンドクンと波打つ血液が、何を求めてるのか知っている気がして怖かった。
あの人を毎朝見ていた。
あの人の部屋から毎晩聞こえる情事に…
心が震えていた。
あの人を知りたかった。
俺は…
あの部屋の猫に
今、激しく
嫉妬しているんだ…。